2015年御翼5月号その2

愛か恐れのどちらかしかない ―― ジャンポルスキー博士

  

ヨハネ第一4:18に、「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」とある。愛の反対は憎しみではなく、恐れなのだ。相手の能力を妬(ねた)むことは、自分の存在が脅かされているので、人は攻撃的になる。相手が恐ろしいから敵意を持つのである。だから、私たちは日々、愛か恐れのどちらかを選ぶことになる。以下は、ジェラルド・G・ジャンポルスキー『癒しとやすらぎのミニ・コース』(春秋社)からの引用である。

私がほしいのは、やすらぎだろうか、それとも葛藤だろうか?望んでいるのがやすらぎならば、私は、与えることだけ、気にかけます。葛藤を望んでいるのなら、何かを得ようと努力したり、なぜ私がそれを手に入れられないかを心配しつづけるでしょう。すべてのかかわりにおいて、自分にこう問いかけましょう。このかかわりは、私自身や相手に、愛を与えているだろうか? 
(この部分は毎日読みましょう)

 誰かを責めるたびに、私は罪の意識や、私なんてという想いを強めています。まわりを許さなければ、自分も許すことはできません。過去に誰かが私に何をしたか、私が何をしたかは、問題ではありません。ただ許すこと。罪やおそれから完全に解放されます。今日、私は、私自身と他の人に対しての、誤った見方を、すべて手放すことをのぞみます。ひとつの心になるでしょう。そして、言います。私は、あなたと私自身を、本当の許しの光に照らします。(マタイ18・22「イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」)

私たちが肉体的感覚をとおして感じとれるものは、現実についての、限定されていて、ゆがんだ見方にすぎない。私と一緒にいる誰であろうと、裁かれるためではなく、愛されるためにここにいます。愛だけを示しなさい。それがあなた自身なのだから。

 夫婦間の赦し
 結婚前から酒癖が悪かったエドは、結婚後、次第に奥さんと精神的な距離が広がる。そしてエドは近所の女性と不倫し始める。      この夫婦は牧師のもとを訪れ、エドが妻のキャロルに不倫を打ち明けた。当然キャロルは怒り、絶対に赦さないと言った。しかし牧師は、「夫を攻撃し始めたら、溝は深まり、よりを戻す可能性はなくなる」とキャロルに忠告した。二人はそれぞれカウンセリングを受けながら別居し、自分一人で自らの気持ちと取り組むことになった。道のりは長く辛いが、ゼロから新しい関係を築こうというのだ。最初二人は、電話で連絡し合うだけだったのが、やがて会話が長く続くようになり、打ち解けてきたので、互いを訪問するようになった。エドは罪を認め、酒もやめ、喜びと自由を得た。キャロルも辛かったが、再びやり直すことには前向きで、エドに対して新しい愛を感じ始めた。そのキャロルも、二人の亀裂に関して自分に全く非がないとは言えないことに気づき、エドを完全に赦したいと思うようになった。そして10ヶ月後、二人はまた一緒になったのだ。どんな夫婦であっても、互いに赦し、愛し合い、新しく生まれ変わることはできる。

 虐待した親を赦す 
 カール・キーダーリングは、4歳のとき母親が亡くなる。再婚した父親は、二人でカールを虐待し、頭や顔を叩いた。カールは家を出て、クリスチャンのある老人に、両親への恨み、怒り、憎しみを打ち明けた。すると老人はカールに、彼がわざと両親の感情を傷つけたり、悲しませたりした時の過ちについて、両親に手紙を書いて赦しを乞うよう勧めた。他人の罪についてとやかく言わず、自分の罪だけを見つめるようにという助言である。児童虐待は、子どもには全く非がなく、一方的に親が悪い。加害者が一方的に悪い場合でも、被害者がそれを赦せば、加害者も光の中に出てくるかもしれない。少なくとも、被害者は恨みから解放される。カールは老人の助言に従い、父親に手紙を書いた。父親は、虐待のことを謝りはしなかったが、カールの重荷は取り去られた。彼は生涯で初めて人生で平安を得て、子ども時代について不平を言うことはなくなった。

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